【中国】兵馬俑は古代ギリシャの影響を受けた?考古学の新説にキレる中国人[10/16]


 
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1476572039/ 
 
1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 07:53:59.76 ID:CAP_USER.net 
  http://img.recordchina.co.jp/thumbs/m720/201610/20161014-04663321.jpg

 
  http://img.recordchina.co.jp/thumbs/m720/201610/20161014-04663322.jpg

 
  http://img.recordchina.co.jp/thumbs/m720/201610/20161014-04663323.jpg

 
  写真は兵馬俑。  
   
  2016年10月14日、参考消息網は記事「兵馬俑は古代ギリシャの彫像にインスピレーションを受けたもの」を掲載した。  
   
  BBCは13日、ウェブニュースで兵馬俑に関する最新の考古学研究結果を報道した。なぜ始皇帝の時代になって突然、等身大の陶像が作られるようになったのは大きな謎だったが、遠く離れた古代ギリシャの影響を受けたとの説が浮上している。秦始皇帝陵博物院の李秀珍(リー・シージェン)研究員によると、従来考えられていたよりもずっと早い始皇帝の時代から中国と西洋は交流があったことが明らかになったという。ウィーン大学のルーカス・ニッケル教授は、最近兵馬俑から見つかった曲芸師の像が古代ギリシャの彫刻との関連を示しており、古代ギリシャ人の職人が中国で兵馬俑製作を指導した可能性すらあると考えている。  
   
  紀元前からユーラシア大陸の東西で文化的交流があったとすれば心躍る大発見だが、中国ネットユーザーの反応は意外なものだった。  
   
  「兵馬俑はギリシャが源流?そんなバカな」  
   
  「ギリシャは彫像、兵馬俑は陶像。別物でしょ」  
   
  「どんだけ離れているのかわかってる?ギリシャの影響なんかあるわけない」  
   
  「兵馬俑がギリシャの影響なら、ストーンヘンジは万里の長城のパクリ」  
   
  「源流は韓国じゃないの?ほら、すべての起源は韓国に通ずっていうし(笑)」  
   
  「兵馬俑の起源はギリシャにありか。なんだかヨーロッパも韓国みたいになってきたな」  
   
  (翻訳・編集/増田聡太郎)  
   
  http://www.recordchina.co.jp/a152721.html  
 
 

 
2 名前:倭州刺史大中華人(国籍中国)@\(^o^)/[お前らより格上の中国人ですが何か?] 投稿日:2016/10/16(日) 07:55:46.25 ID:PQKg0GD/.net 
  無いわ  
  デタラメにも程がある  
 
6 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 08:00:49.72 ID:H18Wt/Xg.net 
  >>2  
  あ わ れ wwww  
 
3 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 07:57:32.50 ID:cp/tJ7cy.net 
  その通りニダ!  
  全ての像の起源は韓国ニダ!  
  その証拠に高麗古墳の手博図を見るニダ!  
 
4 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 07:58:00.86 ID:MqSiD/VW.net 
  じゃあ、古代ギリシャも中国みたいに  
  あの世で皇帝の世話するため家臣や召使を埋めてたんだ  
 
79 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 13:09:23.36 ID:IuFcemYv.net 
  >>4  
  それは古代ギリシアじゃなくて古代エジプトの一時期でしょ。  
 
5 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 07:59:00.98 ID:v4oSus7v.net 
  まぁ、西洋人的発想ではあるなぁ。  
 
10 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 08:09:48.19 ID:Jk7K9PqZ.net 
  >>5  
  漢代の俑も、実のところ、もっと小型ので造形も兵馬俑のように写実的なものではなかった  
  俑は春秋戦国時代に始まり、明代まで続いたけど  
  等身大の俑は、始皇帝陵の兵馬俑のように  
  秦代のあたりのまでだね  
  始皇帝の兵馬俑は、まさに最高の俑だったわけだが  
 
7 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 08:04:40.38 ID:Jk7K9PqZ.net 
  兵馬俑はもともと色が塗られていたと言われている。  
  実は古代ギリシャの彫刻も、白磁の像だと思われているが  
  もともとは色が塗られていた  
  これは古代エジプトの影響だと言われているが  
  ともかく、像に色を塗っているのは、この辺は共通点があるな  
   
  ちなみに19世紀に欧州で民族主義が沸き上がり  
  欧州文明の起源であるギリシャ文明は、欧州特有のものであり  
  エジプトの影響を受けているなどあり得ない、なんて考えが広がり  
  わざわざ出土品の像から、塗料をそぎ落とすようなことが  
  大英博物館などでも行われたと言われている  
  だから、いまのギリシャの像の多くが、白磁の像になっている  
 
64 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 11:02:24.72 ID:w/6Imp1F.net 
  >>7  
  白磁だっけ?  
   
  白地では  
 
66 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 11:10:30.30 ID:4hJ01X/P.net 
  >>64  
  白磁があったら大騒ぎだわな(秦であっても)  
   
  地もなにもほとんどが無塗装状態に戻ってるだけだよね  
 
70 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 11:55:15.77 ID:Jk7K9PqZ.net 
  >>64  
  白く美しいという意味で、白磁とか白亜とか用いているだけのことで  
  突っ込むようなとこではない  
 
8 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:08:35.18 ID:5Y3WNNYZ.net 
  始皇帝は万里の長城以前に、  
  ローマの道みたいに道路網の整備が重要な要素だったことは  
  昔から言われてる  
 
20 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:22:19.13 ID:VHg0Y4R2.net 
  >>8  
  始皇帝は目が青くペルシャ人て話もある  
 
9 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:09:01.14 ID:encrtDRT.net 
  中国四千年もうそでしょ  
  黄河文明とかないんでしょ  
 
11 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 08:11:14.09 ID:Jk7K9PqZ.net 
  >>9  
  ローマの装飾品が、日本の古墳で発見された例だって実際にある。  
  東西の文明の交易は、思ったよりずっと盛んだったよ  
 
12 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:11:39.95 ID:WwaoOhLg.net 
  兵馬俑は朝鮮が起源はニダ  
  シナチクから謝罪と賠償するニダ  
 
13 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:12:10.16 ID:WycPITy/.net 
  始皇帝はアレキサンダー大王より後の人だから本当の話しかもしれない。  
 
14 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:14:02.97 ID:HS4edVwm.net 
  ◆白人が多数入り込んでいた古代中国  
   
  そもそも中国という国自体がペルシアの劣化コピーである。  
   
  紀元前558年、メディアから独立したアケメネス朝ペルシアはまたたくまにメソポタミア地方を席巻。  
  紀元前525年にはエジプトを征服してオリエントの統一を果たした。  
   
  三代目の王である偉大なる『ダリウス1世』はインドに遠征し  
  ペシャワールを征服、パンジャブ地方のシンドを征服。  
  北方騎馬民族スキタイの征伐のため北部にも遠征したが撤退。  
  西方の強国ギリシアと長い戦いを繰り広げるが途中で  
   
  ダリウス帝は広大な領地を統治するために画期的な政策を敷いた。  
  帝国全土を127の州、すなわち「サトラップ」に分け、そこに太守、軍司令官、監視官を置いた。  
  それぞれのサトラップ間には幹線道路を整備し、各地に駅伝を設けた。  
  貨幣制度を統一し、中央集権的な支配体制を確立。  
   
  古代世界においては非常に東西の交流が盛んで、中国には沢山のペルシア人が入ってきていた。  
  物証としても周代、春秋戦国時代の遺跡から中央アジアや西アジアの宝石や工芸品ものがたくさん出土しており、  
  ガラスの作り方も西アジアから、戦国時代の中国に入っている。  
   
  ちなみに一方、3000年前〜1500年前の中国西部は白人が支配する地域だった。  
  新疆ウイグル自治区の楼蘭の美女と呼ばれるミイラは白人のミイラとして知られており、  
  中国西部では600体もの白人のミイラが見つかってる。  
  山西省の大原市からも白人が埋葬された墳墓が見つかっている。  
   
  中国東部もまた今の中国とは異なり、たくさんの白人が住んでいた。  
  九尺六寸(216cm)の長躯で、「史記」によると「人は彼を見て驚き、長人と言う」とまで言われ  
  いつもクチャクチャ肉を食べていたという、紀元前6世紀の偉人「孔子」もまた白人だったと言われる。  
  孔子時代の、山東省の遺骨を全部集めてDNA解析をしたところ、  
  その時代の山東省には白人が住んでいたことが分かったからだ。  
 
15 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:15:42.38 ID:HS4edVwm.net 
  ◆古代中国では人種の入れ替わりがあった  
   
  しかしある時期に民族の大きな入れ替えが起こった。  
   
  漢王朝が崩壊後、北方の異民族が流入し、中国の人口は3分の1〜6分の1にまで減少した。  
  これは流入した北方民族を含めての数であるため、  
  元々中国に住んでいた民族がいかに激減したのかがよくわかる。  
   
  この大混乱時に乗じて全く異なる民族が漢民族の名を盗み、  
  過去の歴史まで全部乗っ取って入れ替わってしまった。  
  その後、鮮卑族と呼ばれる北方民族が統一王朝を建設し、隋、唐と長い間支配が続く。  
  現在の漢民族は唐時代に民族の基礎を形成したが、古代の漢民族とは、  
  現在のイタリア人と古代ローマ民族以上に別物の存在であるわけだ。  
   
  これらについては文献だけでなく遺伝子的な面からも裏づけがとれている。  
  2000年に東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、  
  斉の都があった臨シ市の、約2500年前の春秋時代と、  
  2000年前の漢代の遺跡から出土した人骨、  
  及び現代の同地の住民から得たミトコンドリアDNAを比較研究し、その結果を発表している。  
   
  その結果、約2500年前の春秋戦国時代の住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子、  
  約2000年前の前漢末の住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、  
  現代の住民の遺伝子は、現代の東アジア人の遺伝子と変わらないという事がわかった。  
   
  要は中国は春秋戦国時代の中国はヨーロッパ系民族の国だったが、  
  前漢末には中央アジア系民族の国になり、  
  だいたい隋・唐代以降は「漢民族」の名を盗んだ現在の中国人の国になったというわけだ。  
   
  「中国は歴史の国」などと言われているが、タブーとされている本当の事を言えば、古代史はほとんどが作り話の可能性がある。  
  詳細は長くなるんで省くが「史記」に書かれた古代史も、その大部分がオリエント史をパクった借史にすぎず、  
  本当の古代中国について記載したものではないらしいという説まであり、研究が進んでいる。  
   
  儒教や道教にしてもその類似性や同時代性から、ギリシアや中東が起源であろうという説まである。  
  更には古いペルシアの史書には、「中国はトルコ系民族によって支配されていた」とまで書かれている。  
 
16 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:18:50.14 ID:HS4edVwm.net 
  ◆始皇帝の政策はダリウス帝のコピーだった  
   
  さて、ダリウス1世の治世から200年ほども後、紀元前221年に、  
  中国では始皇帝が中国史上初の最初の統一王朝を建設した。  
  始皇帝はそれまでに無い画期的な行政改革を行った。  
   
  文字、言語、貨幣、度量衡の統一、  
  郡県制の導入、太守・丞・尉・監の設置、長城の建設…  
  (有名な焚書坑儒については後に支配権を得た漢によるプロバガンダとも言われている)  
   
  始皇帝は「中国」という国の基礎を作った人物であり、秦帝国以後の中国王朝は、  
  これを踏襲することによって君臨したにすぎない。  
  そして「始皇帝は政治と発想の天才だった」  
  「中国という国の実質的な祖だ」と中国人や親中派によってベタ褒めされまくった。  
  しかしこうした始皇帝が中国史上はじめて行った数々の政策だが、  
  全てそれに先立ち、まったく同じ事をやってたいたダリウス?世のコピーでしかない事が今はわかっている。  
   
  始皇帝は都を中心として国内すみずみにまで通ずる馳道(皇帝道路)を建設し  
  始皇帝の全国巡遊に当り、要所に詔勅文を刻した摩崖碑を作り、みずからの功業を誇示した。  
  石に銘文を彫ることは、この始皇帝に始まったもので、泰山の碑が紀元前219年であるから、  
  それ以前のものと称する中国の石碑はすべて偽作である。  
   
  これらは戦国以前はもちろん、漢代にも全くない、秦代独特のものだが、  
  一方でダリウス一世も王都を中心とした「王の道」を建設し  
  領土内の要地に詔勅文を刻した摩崖碑を作っている。  
  西南アジアのベヒストゥンにはダリウス帝の功業をたたえた碑文がある。  
   
  始皇帝は「阿房宮」という、東西600メートル、南北120メートルもあり、  
  貴族の宴の場として用いられた巨大な宮殿と庭園を建設した。  
  一方ダリウス?世は「パラディス」という、  
  広い土地を土塀で囲んで植林し、そこへ動物を放す事で、  
  ハンティングが楽しめるという貴族たちの巨大リゾート施設を建設している。  
  これが阿房宮の元ネタと考えられ、またダリウス?世は北方の騎馬民族の侵入を防ぐため  
  中国ほどの規模ではないが長城も建設している。  
   
  何から何まで始皇帝のやってきた事はダリウス?世のコピーでしかない。  
  秦以降の統一王朝とは、その実ペルシアを東方に再現して作られたコピー品なのだ 。  
 
17 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:19:20.80 ID:OwYJ/MX0.net 
  よくあるケースだからな 特に韓国はすぐいうからww  
  怒るのは当然だよww  
   
  ショパンの休日 C major Chopin's Holiday (最後の音のミスは内緒だよw)  
  https://soundcloud.com/djangelest/c-major-chopins-holiday  
   
  わたしからは以上だな ブッタ(悟ったもの)より。  
 
18 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 08:21:12.92 ID:N9ss3nfi.net 
  そういえば、ウチの会社の山東省出身の中国人は  
  どことなくイラン人ぽい顔をしている  
  体もデカいし  
 
19 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:22:14.15 ID:LnlcQdJs.net 
  そもそも秦の始皇帝はペルシャ人だろ  
 
21 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:24:22.76 ID:HS4edVwm.net 
  ◆秦王国の謎  
   
  始皇帝の出身国の秦は、「戦国七雄」と呼ばれる当時の中国の7か国の中で  
  もっとも西方にあった国で、西域との交流が盛んだった。  
   
  「史記」には「秦は僻遠の雍州の地にあって、中国諸侯の会盟にあずからず、夷テキと同様の待遇を受けていた」とある。  
  中華思想からすれば、いわんとすることは明らかであり、中国諸侯と同列に扱われず、蛮族と同等の待遇だったということは、  
  すなわち秦は中国とはまったく別民族の国だった事を意味している。  
  現在の中国の歴史学者の多くも、もともと秦の人々は漢民族ではなかったという見解で一致している。  
   
  春秋・戦国時代を通じて、秦の領土は常に西方にあり、西戎と抗争を繰り返していた。  
  秦の領土内には多数の西戎、異民族が流入していたが、住民の間には混血も多かったろう。  
  秦の始祖である非子は馬の飼育に成功したことで功績が認められているが、  
  そもそもの秦という国のルーツは西方から来た騎馬民族であると考えられている。  
   
  始皇帝は鷲鼻で青い目をした白人だった。  
  その父は公式には秦の王である「子楚」という事になっている。  
  子楚は他国に人質として育てられていた不遇の子供時代を送ったが  
  商人の「呂不韋」が彼に目をつけ、スポンサーになって王として育て上げた。  
   
  子楚は呂不韋の目論見どおり即位し、「荘襄王」となる。  
  このまま理想的な王として秦を統治するものと思われたが、計算外の事態が起こる。  
  呂不韋の愛妾の「趙姫」に横恋慕し、よこせと言い出してきたのだ。  
  これには呂不韋も怒った。  
  しかしこれまで多額の投資をしてきただけに、渋々愛妾を差し出す。  
  そして荘襄王は即位後たった3年で死亡(呂不韋による謀●とも言われる)し、  
  その子エイ政が若干13歳で即位する。  
   
  エイ政は公式には秦王家の王子だが、実際には王家の血を引いてはおらず  
  宰相になった呂不韋の子だと言う。  
  そしてエイ政は長い戦いの末に中国を統一して始皇帝として即位、外敵を排除して強大な王国を築く。  
   
  ちなみに、始皇帝が中国を統一した事は大変な偉業といわれているが  
  実は始皇帝が即位した時点で他の6カ国に大きく水をあけており、  
  別に始皇帝でなくとも、 天下統一はイージーモードであった。  
  別に大した偉業でもないのである。  
 
22 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:27:45.81 ID:gouKKQRM.net 
  きわめて幼いころに福岡で展示会があった際にバカが像を割ったような記憶がある  
 
23 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:28:08.92 ID:g7eynYEt.net 
  兵馬俑見たとき、それ感じたよ  
  ヘレニズムの影響受けてるんじゃないかって  
  秦以降の彫像からはこういう造りは消えてるよね  
  東洋的な彫像に戻ったというか  
  兵馬俑だけ異質すぎる  
 
24 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:29:18.17 ID:8Mi6ihka.net 
  薬師寺の仏像の台座にもギリシャ風の紋様があるくらいだからな。  
 
25 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:33:35.25 ID:uRSSzgtj.net 
  どっちにしても中共国とは関係ない  
 
26 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:34:20.78 ID:qxP1Hy4m.net 
  始皇帝はペルシャ系  
 
27 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:37:37.24 ID:qxP1Hy4m.net 
  http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html  
   
   しかも秦の始皇帝は金髪碧眼だったという伝説があります。そして始皇帝は側近以外には絶対に自分  
  の姿を見せませんでした。従来は、始皇帝が金髪碧眼だったのは、実の父親呂不韋が胡人だったから、そ  
  して始皇帝が人前に姿を現さなかったのは幼少期に人質としていじめられて人間不信に陥っていたから  
  と言うことになっています。  
   
   しかし、秦が元々タクラマカン砂漠のオアシス都市に住むコーカソイド出身であり、秦の王族と側近は  
  砂漠からの移住以降も白人の血が色濃く残っていたとすれば、始皇帝が金髪碧眼だったのも理解ができます。  
   
   そして、歴代の秦王が何故か本拠地に籠もっていて、中原の会盟に姿を現さず付き合いが悪かったことや、  
  始皇帝が人に見られることを極度に嫌がったのは、自分たちが異民族であることを自覚しており、それを知ら  
  れたら、領民から排斥されて国が崩壊するする可能性があったからではないでしょうか。  
   
   宮殿奥に隠れて、極端に人目にさらされることを嫌う中国の皇帝の伝統は始皇帝に始まっているのですが、  
  その理由は秦王朝が胡人(コーカソイド・白人)だったことにあるのではないでしょうか。  
 
28 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:39:14.84 ID:UBfATG4t.net 
  ペルシャ人はギリシャ文明の影響を受けていた。  
  春秋戦国なんて、ひたすらダマし合い、●し合いの時代から、  
  急に万里の長城や大運河建設など前向きの政策に代わっている。  
  別の民族としか考えられない。  
 
32 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:41:20.20 ID:tB4XTJEz.net 
  >>28  
  万里の長城は戦国時代に築かれた各国の対騎馬民族防壁を繋げただけだぞ?w  
 
52 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:11:33.13 ID:GNzqJMK8.net 
  >>28  
  統一によって必要に応じた施策を実行できるだけの国力を得ただけの話  
  (権威の誇示も含む)  
 
54 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:15:41.75 ID:5NOEN6Yq.net 
  >>52  
  wwwwww  
  経験積んでないのに  
  急には大規模なモノをやらないだろ普通  
 
56 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:22:23.19 ID:GNzqJMK8.net 
  >>54  
  経験をつんでないってのはどの部分で?  
  万里の長城をつなぐこと、兵馬俑、運河、街道の整備なんかは人数さえいればできることなんだけど  
 
71 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 12:00:32.37 ID:V5KTqfBN.net 
  >>28 都江堰や四川省の開発は始皇帝より100年くらい前。  
 
29 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 08:39:26.54 ID:uYuX3B1N.net 
  向こうの栗山千明とCMに出てたキレ芸人みたいな中国人なんだろ  
 
30 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:40:12.85 ID:h4SGwgjL.net 
  人は記憶型と思考型に大別できる  
   
  偶像はインド回りで中国に入ったものだろ?  
  中国の像は基本的に抽象的なデフォルメがされてる  
  だが兵馬俑はリアル  
  直接欧州から技術が伝播した可能性が高いわな  
 
31 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:40:42.39 ID:HS4edVwm.net 
  ◆始皇帝はユダヤ人だった  
   
  さて、始皇帝の実父の 「呂不韋」だが、羌族の出身である。  
  羌族はチベット系の民族のひとつで、歴史は古く、殷の時代にまで遡り、今日でも河南省を中心に存在している。  
  「羌」とは羊に由来する文字で、これは彼らが発祥以来、ずっと遊牧民であったことを端的に示している。  
   
  のみならず、羌族は失われたイスラエルの十支族の子孫である。  
  これについてはアフリカからアジア全域まで徹底的に調査した、イスラエルの調査機関  
  「アミシャーブ」の遺伝子調査によって裏が取れている。  
   
  起元前722世紀、アッシリア帝国がパレスチナ地方へと侵出。  
  北朝イスラエル王国を滅ぼし、イスラエル人を奴隷としてメソポタミア地方へと連行する。  
  しかし紀元前612年、アッシリアはメディアとカルデアの連合軍に敗れて、一気に衰退。  
  アッシリア帝国は滅亡したが、連行されたイスラエル十支族は忽然と消えてパレスチナへと戻る事はなかった。  
   
  彼らはアッシリア領内へたびたび侵入を繰り返し、物資と人員略奪を繰り返していた騎馬民族スキタイに同行し、  
  中央アジアへと拡散した事が、後の中央アジア諸民族の遺伝子調査から判明している。  
  スキタイは敵対者には容赦はないが服従する者に対しては厚遇し、その痕跡は北欧から朝鮮半島にまで及んだ。  
  スキタイの流れを汲む東北アジアの騎馬民族のひとつ、扶余族は高句麗や百済を建国し、  
  その一派は日本列島へと侵入、圧倒的な機動力で倭国を征服し、大和朝廷を開いて、自らを天皇(大王)と名乗ることになる。  
  またペシャワール(ガンダーラの東方を征服したスキタイの一派はサカ族と名乗り、  
  後に分岐してネパールに住み着いたとみられる一派から  
  ゴータマ・シッダールタ、つまり釈迦が生まれる事となる。  
   
  始皇帝はユダヤ系の血を引いていた可能性がある。  
  そもそも始皇帝がモデルにしたアケメネス朝ペルシアとは  
  バビロニア帝国を滅ぼして建国された国で、  
  初代王のキュロスはバビロン虜囚から解放された南方ユダ王国のイスラエル人たちに好意的だった。  
  その結果アケメナス朝ペルシアはイスラエル人モルデカイが宰相を勤め、  
  勤勉で優秀なイスラエル人を要所に登用し、イスラエルが実権を握った国である。  
  (さらに聖書の『エステル記』によれば王妃までイスラエル人となる)  
  ペルシアの秦、ふたつの大国の中枢にユダヤ人が座っていたのだ。  
 
33 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:41:42.55 ID:iajs8+GR.net 
  あの時代から異国文化を受け入れてたってことにホルホルする案件だと思うんだけどねえ  
  やっぱ中華思想だと  
  地の涯の蛮族の影響だと?ふざけんな  
  ってなるものなのか  
 
34 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 08:44:51.82 ID:EwqnsCox.net 
  >>1  
   
  シルクロード経由でヘレニズムの影響は受けてると思う。  
 
35 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:45:48.63 ID:GbfoHizR.net 
  始皇帝は西域の人だからペルシャ系かも知れないが、  
  これはトンデモではないの?  
 
36 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:46:28.48 ID:NtnGQIXL.net 
  ソクラテスよりも年上の孔子も俑に言及している。  
  あまり写実的な人形を副葬品にするのは殉死ぽくてよくないと(礼記)。  
   
  弥生時代の日本人はそれに倣って抽象的な埴輪を副葬品にした。  
  焚書坑儒の始皇帝はあえて逆らって写実的な兵馬俑を大量に作らせた。  
   
  写実性が持て囃され始めたのがせいぜい紀元前200年ごろな  
  ギリシャの彫像からの影響を憶測したところで時間軸が合わない。  
 
37 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 08:50:10.30 ID:A3lVcyKy.net 
  どっちも韓国が起源なんだけどな  
 
38 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:54:13.64 ID:HS4edVwm.net 
  ◆ペルシア人と始皇帝  
   
  さらに始皇帝の近辺にはペルシア系の人間が多数仕えていた。  
  始皇帝は周囲約2000メートルもの巨大な陵墓を建設した。  
  『史記』によると、内部は地下宮殿になっており、水銀の川が流れているという。  
   
  その大規模さを裏付けるように、1974年には始皇帝陵の東1.5キロの地点に、  
  等身大の陶俑と陶馬が整然と軍列をなして並ぶ「兵馬俑坑」が発見される。  
  その数は未発掘のものを含めて少なくとも8000体以上あると推定され、陶俑の造形はすべて異なり、同じものはひとつとてない。  
  多くはモンゴロイドの特徴を備えているが、なかには非漢民族の顔つきをした陶俑がある。  
   
  2006年6月28日の中国の新聞「新華社電」によると、兵馬俑坑に副葬された労務者の遺骨50体から個別にシリカゲル吸収法を用いてDNAを採取し、  
  最終的に15タイプの個体を確認。その中にパルシー人、ペルシア人やクルド人など、西アジアの民族の特徴が認められた事が明らかになったという。  
  陶俑として作られた兵士は、膨大な兵士の中でも特に始皇帝の信任の厚い兵士だったと考えられ、  
  始皇帝がペルシア人たちを厚遇していた事がよくわかる。  
   
  さらにこの兵馬俑には色が塗られていたが、これにはギリシャ彫刻の影響が見て取れる。  
  ダリウス帝は東の果てガンダーラを征服し、そこでは紀元前50年から西暦75年頃に、ガンダーラ美術が花開いた。  
  ガンダーラには多数のギリシャ人が訪れ、  
  ギリシャ、シリア、ペルシャ、インドの様々な美術様式を取り入れた仏教美術として発展する。  
  そしてペルシアの文化はペルシア人を中心とする諸民族によって秦へと運ばれ、  
  そこで中国文化と習合した。  
  もっといえばガンダーラから来たペルシア人やギリシャ人が  
  直接兵馬俑の制作に携わっていた可能性もあるのだ。  
   
  ともかく長くなったが、大古の中国は漢字の発明も含めてヨーロッパ系の白人の多かった国であり、  
  漢代に中央アジア系へと民族が入れ代わったものの、その後に秦王国はペルシアをフォーマットとして中国の礎を築き、  
  それは以後2000年近くにわたり歴代中国王朝へと受け継がれたという事だ。  
   
  完全に漢民族の国になって安史の乱を起こした康国(ソグド)出身のロクシャンこと康禄山など、  
  中国には中央アジア人が多数住んでおり、ペルシア系の移民は  
  日本に使節として訪れたペルシア人「李密翳」など、特に李姓を賜った。  
  唐詩で有名な李白もペルシア系で、目が青かったと記録にある。  
 
80 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 13:19:55.06 ID:IuFcemYv.net 
  >>11,>>14,>>38  
  兵馬俑の鎧兜やチャトリオットは、ペルシア様式らしい。  
  古代中国文明は他にも城郭都市を採用するなど、バビロニアの影響が見られる。  
  古代よりある伝わる中国の占星術にはギリシア神話と同じ十二宮の名前が使われており、ギリシア神話の元ネタであるバビロニア占星術の影響が見られるし。  
 
39 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 09:00:35.20 ID:HS4edVwm.net 
  と思ったけどガンダーラの件は計算があわんのでカットな  
 
40 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 09:35:49.51 ID:8gkj3uR8.net 
  まあ、そういうこともあっても良いんじゃね?  
 
41 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 09:38:36.44 ID:8AjT9q5Z.net 
  >>1  
  しかしやはり圧巻だなあ  
  家に帰ってきてこれが2、3体いたらこわいな  
 
42 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 09:41:03.92 ID:8AjT9q5Z.net 
  古代ギリシャには韓国人がいた  
  というなら、影響を受けたというのもあり得ない話ではない(寝転がって屁をしながら  
 
43 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 09:49:19.31 ID:i21Gbhzh.net 
  「源流は韓国じゃないの?ほら、すべての起源は韓国に通ずっていうし(笑)  
   
  俺はこの意見に1票  
 
44 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 09:49:58.40 ID:nV8xZI5m.net 
  韓国起源ネタがワールドワイドになってきたなw  
 
45 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 09:50:27.12 ID:mjYx9TAO.net 
  古代ローマの遺跡から中国人の遺骨がみつかった話が最近あった。  
  ということは逆もまたしかりでは。  
   
  日本の律令時代にペルシャ人もいたようだし。  
 
46 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 09:51:05.63 ID:XWOHgj6H.net 
  マジノ線は万里の長城を参考に作られた  
 
47 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 09:52:52.54 ID:FawlkYyO.net 
  中国起源と言われるものの多くはもっと西に遡れそうだよな  
 
48 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 09:58:07.19 ID:5NOEN6Yq.net 
  始皇帝自体というか「秦」自体が  
   
  ペルシャ系かギリシャ系の国だと思うぞ  
 
49 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 10:00:56.62 ID:FawlkYyO.net 
  そもそも秦自体が化外の地にある国だったわけだしな  
  中国の歴史の一部ではあるけどいわゆる外来からの征服王朝だよ  
 
50 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 10:03:58.21 ID:a/EUZ+qm.net 
  起源に拘るヤツにまともなのはおらんな  
 
51 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 10:10:45.70 ID:dvUG3rFN.net 
  古代文明の基礎って中東起源でしょ  
  中東から伝わった文明がそれぞれの地域で現地化されて  
  そのうちの一つが中国文化なんだろう  
 
53 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:13:24.88 ID:5NOEN6Yq.net 
  インド=ヨーロッパ語族の発生は  
  現代のイランインド北部~ウクライナ周辺と言われてる  
   
  中国の西部~西域は隣接地だから  
  始皇帝がインドヨーロッパ語族であっても不思議はない  
 
55 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:21:42.29 ID:lb9KBGrX.net 
  リアルな像はギリシャや古代中国も古代オリエントからの影響じゃねえの?  
 
57 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 10:23:44.76 ID:SMJQihTl.net 
  兵馬俑みたいな等身大の人形の痕跡がないからでしょ  
 
59 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:37:38.71 ID:GNzqJMK8.net 
  >>57  
  その理屈なら、その時点で最大の建造物なんかは必ず違う民族の手によるものってことにならない?  
  兵馬俑以前に人形そのものがなかったっていうならともかく  
 
58 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:24:34.55 ID:Ao7q1Zu3.net 
  他国に優れたものが有れば、模倣する。  
   
  どこの国も同じ。  
   
  大体、まだ可能性の問題だろ。  
  調べて違えば、根拠を基に否定すれば良いだけ。  
 
60 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:47:57.09 ID:biozepA6.net 
  昔からこの手の説はあったと思ったが。  
 
61 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:51:41.75 ID:fNQXqnCU.net 
  イリヤッド  
 
62 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:51:54.26 ID:4hJ01X/P.net 
  人的交流はあったわけだから、影響あってもおかしくはないよね  
  なくてもおかしくないけど  
 
63 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:53:50.77 ID:G0zm53MP.net 
  結局、正確な記録が残っているかどうかなんで  
  記録がない時代のことはよく分からない  
  シルクロードの中間拠点があったチャイナの都市には  
  いろんな物が集まりいろんな物が出ていったことは間違いがない  
  集まってきた物をアレンジして起源を主張している可能性はかなり高い  
  が、それらの年は短い期間でみんな滅びたので記録も物も断片的でしかない  
  シルクロードの東の果て京都もいろんな物をコレクションした  
  でも、長い歴史を生き延びた京都は物と記録が残っている  
  物の来歴が分かるので起源には拘らない  
  良い物はどんどん広がっていくんだと理解しないとw  
 
65 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 11:06:04.56 ID:9WvtQif4.net 
  当時からニセモノ文化パクリ文化があったというのなら、  
  それならそれで伝統に敬意を払うべきだが、  
   
  じっさいは、どこの誰でも思いつく程度のレベルってことだろ。  
 
67 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 11:26:28.28 ID:ROxrSHTa.net 
  でもあの国で破壊されずによく遺せたよな  
 
68 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 11:32:23.04 ID:bjU1fcy3.net 
  可能性は大いにあるよ。  
  仏教の仏像だって、もともとは偶像禁止をしていた仏教が何故あれほど  
  仏像を大量に作るようになったかと言えば、アレクサンダーに率いられて  
  インドの西の境界線にまで到達したギリシャ人の一部がそこに住み着いて  
  国を作り、一部は仏教に帰依した。そしてガンダーラで仏像が盛んに  
  作られるようになると、仏像と仏教は切り離せないものとなった。  
  これがBC3世紀だから、その流れが中国に及んだことは普通に考えてありうる。  
 
69 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 11:34:28.37 ID:06nAELdG.net 
  劣化コピー  
  の常習犯か  
 
72 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 12:16:51.18 ID:Meg8JqLt.net 
  温泉に入るようになったニホンザルの話みたいなもんじゃないの?  
 
73 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 12:23:21.17 ID:b4PHJEFX.net 
  自分が言うのはよくて、自分が言われると怒る  
 
74 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 12:30:27.97 ID:eunSSY8u.net 
  ガンダーラ美術の影響?  
  時代が合わないか?  
 
75 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 12:30:51.20 ID:0d+0qKPm.net 
  古代も東西の交流盛んだし、中国のものがって言われてるものが西のものだったったってことは充分可能性ある  
  欧州ってよりやっぱりアフリカやメソポタミア地域がだいたい発信地だったのではないかねー  
 
76 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 12:33:46.05 ID:7BEvCzXI.net 
  こんなの見てると  
  この時代の古代中国大陸って凄いレベルだったんだな  
   
  今の中国は、全く関係ない連中が自称中華を偽装してる人達だから  
  中国の歴史と今の自称中国は、全くの別物  
 
77 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 12:35:04.75 ID:/FJhd/AL.net 
  いやギリシャじゃなくてペルシャだよ。  
  秦がペルシャの影響を受けてたとしても不思議ではないでしょ。  
 
78 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 13:03:34.27 ID:3BKg0vL1.net 
  「4大文明」などと言うのは  
  シナ人のプロパガンダ!  
  そんなものは欧米人は認めていない。  
  少なくとも、メソポタミア文明、ナイル文明、  
  インダス文明よりは遥かに後発!  
  それらの  
  特にインダス文明の影響を多く受けている。  
 
81 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 13:24:11.98 ID:QkzUiaOE.net 
  ギリシャ文化の到達は紀元前300年でアフガニスタンまで。そっから途中経路のサマルカンドやカシュガルでギリシャ文化とかあんまり聞かないから  
  やっぱ無茶な仮説だろうなぁ。  
 
82 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 13:25:44.49 ID:Wi6W6N4N.net 
  秦は中華の中で西戎扱いで、西域との交流・交易で発展したんだから、  
  欧州や西アジア、インド等の影響はあるでしょう。  
 
83 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 13:28:58.51 ID:+Vjf2DZW.net 
  写実的な成形技法がギリシャ彫刻の影響を受けてるってことか?  
   
  秦て、時代的にはアレキサンダーとかあの辺り?  
  ヘレニズム文化だったっけ、あれはペルシャの影響を受けてるんだよな。  
  うん、ギリシャじゃなくてペルシャの影響じゃね?秦の朝廷って民族というか部族的にかなり多様な顔ぶれだったんでしょ?  
   
  ペルシャ系の人がいても・・・というか秦を興した趙氏はもともと西方騎馬民族の血が入ってるんだから、民族的に同じ血が入ってそうに思える。  
 
86 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 13:35:27.47 ID:Wi6W6N4N.net 
  >>83  
  ヘレニズム文化がオリエント文化とギリシャ文化の融合だから、  
  その影響の中にギリシャ的な要素があっても不思議じゃないよ。  
 
90 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 14:10:02.53 ID:QkzUiaOE.net 
  >>83  
  秦のころはアフガニスタンにグレコ・バクトリアっつー国ができてて、グレコってのはギリシャのことで、ギリシャ文明が伝わってきたどころか  
  アレクサンドロスによって連れてこられたギリシャ人そのものが大勢アフガニスタンに住んでたんよ。その後アフガニスタンにギリシャ彫刻に  
  よってガンダーラ美術が興る。ギリシャ文明が伝わってきたんじゃなく、ギリシャ人そのものが仏像彫ってたんだね。  
 
84 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 13:32:23.06 ID:kNg3R5YO.net 
  >近兵馬俑から見つかった曲芸師の像が古代ギリシャの彫刻との関連を示しており、・・・  
   
  http://hby.blog75.fc2.com/blog-entry-15.html (「曲芸師の像」の画像あり)  
 
85 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 13:33:37.43 ID:BYe0kZ5Z.net 
  だいたいこいつのせい→アレクサンダー大王  
   
  あんだけ西アジア引っ掻き回したんだから  
  人材も文化も交流するだろうな  
 
87 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 13:38:34.89 ID:Wi6W6N4N.net 
  >>85  
  しかも短期間で制圧する為に、現地権力を残したまま臣下にしたんで、  
  文化交流が権力者主導になって、一気に進みましたからねぇ。  
 
88 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 13:50:11.77 ID:3hQWiBQn.net 
  秦の始皇帝は黄色人種じゃない可能性があるんだろ?  
  目は青で髪は赤毛だったっけ?  
  どっちにしろ今の中国人とは関係無いからwww  
 
89 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 13:59:53.78 ID:6Jqhksjs.net 
  そもそも、洋は海を渡って羊が来たという意味。  
  どこから来た??  
  あっち「洋」から。  
  となると、漢字自体も本当に中国製か疑わしい。  
 
91 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 14:12:03.08 ID:KoUPpcCI.net 
  >>1  
  何にせよ、今のシナ人とは無関係なんだが。  
 
92 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 14:14:46.38 ID:HBkgJQQm.net 
  全ての文明の起源は中国アル  
 
93 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 14:15:07.49 ID:fg7BjoBs.net 
  秦ていう国名はローマを意味する大秦から来てて始皇帝はローマ人ていう説があるよね  
 
94 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 14:19:50.12 ID:PoNNuDE6.net 
  人類は基本西から来て文化も引き継いでる  
  そういうこと  
 
95 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 14:22:40.74 ID:SNZ9sVv4.net 
  ギリシア自体が、メソポタミア&エジプト文明や小アジアのパクりなのに、何言ってんだ?  
  文字はフェニキア文字をパクり、彫刻はエジプト彫刻をパクり、陶器は小アジアの技術のパクり  
 
96 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 14:45:56.07 ID:XGXsXtNY.net 
  交流など、人の流れが有ったなら影響うけないわけがない。  
 
97 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 14:54:49.97 ID:chpD95B6.net 
  老荘は瞑想をしてたらしい  
  瞑想もたぶんインド辺りが起源だろう  
 
98 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 14:59:13.73 ID:wyq9mXaw.net 
  >「源流は韓国じゃないの?ほら、すべての起源は韓国に通ずっていうし(笑)」  
  >「兵馬俑の起源はギリシャにありか。なんだかヨーロッパも韓国みたいになってきたな」  
   
  あんたらの反応みるかぎり中国人も韓国みたいだがw  
 
99 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 15:01:13.39 ID:IWT7bKyz.net 
  韓国の悪名が轟いていてワロタwww  
 
100 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/[] 投稿日:2016/10/16(日) 15:10:03.31 ID:bjU1fcy3.net 
  仏像そのものが古代ギリシャの影響なしには存在しなかった。これは間違いない。  
  古代の仏像の顔を見てみろ。みんな鼻筋が通ってるだろ。  
  あれはどう見てもギリシャ彫刻の影響だよ。  
 



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